学ぶとは、教えるとは
昨日の和歌山講演でも、本が完売した
素直にうれしい
参加者それぞれが手に手に私の本を持ち帰ってくれた
これで40人の暴力被害者にこの本が届き、
死を考えることをあきらめてくれるかもしれない
今朝の新聞の読者の投稿欄にこんな言葉が引用されていた。
『学ぶとは心に誠実を刻むこと。教えるとはともに希望を語ること』
傷つき、何もかも失った人々に回復プログラムを実施している私としては、
とても心に響く言葉だった
彼ら(彼女ら)はみんな「学ぶ」ことによって、自分を取り戻そうとしているからだ
今朝もまたひとり、DV被害女性から、プログラムを受けたいというメールが届いた
家族からの暴力によって刻まれた負の感情と思考を
学習によって矯正し、新しい価値感を自分に植えつけて、
次の人生に臨みたいと決意したサバイバーは極めて正しい選択をしている
2度と人に踏みつけにされないためには
歪まされた認知を変容させ、失わされた自信を取り戻し、本当の自分に戻ることだ
そして社会に対し、堂々と渡り合っていくことだ
Cさん、がんばろうね
偶然、MBAというブログでも、この言葉がとりあげられていた
共感するところ多いので、以下、引用させていただく
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先人の教えや他者の苦労した経験を学ぶためには、
真剣に自分が真正面からそれらの知識や経験と向き合わなくてはならない。
そうしなければ、うまく学べない。
そしてそういう姿勢は、人間の誠実さを要求する。
自分が学ぶべき対象と正々堂々と戦わない限り、
自分の中には何も入っていかないのだ。
だから、学ぶことは、学ぶ対象に対して誠実に対応することになるのだ。
学んだ事実はそういう意味で、自分の心に誠実を刻んでいくことになる。
ものを知っている人ではなく、本当の意味で学びの多い人はだから誠実なのだ。
次に「教えるとはともに希望を語ること」だが、これも美しい。
世の教師の中でどのくらいの人が生徒とともに希望を語り合っているだろうか。
今、教師に求められている能力の本質は、
この夢や希望を持つ能力とそれを生徒と共有することが
できるコミュニケーション能力かもしれない。
大人が夢や希望を語らない限り、子供たちは、夢や希望を持ち得ないだろう。
そうだとすると、夢や希望がない世代は、
何も自分から学ばなくなる世代になってしまう可能性がある。
誠実が心に刻まれない世代を作ってはいけない。
少なくても私たち大人は、夢や希望を語れるように生きたいものだ。