やってきた牧師

先日ブログで、「宗教者よ、答えなさい」というタイトルのコラムを書いた
すると、さっそくある牧師が会いにきてくれた
教会がいかに男性社会で隠ぺい体質であるかを説明してくださった
そして、彼はそれを変えようと思っていることも

女の牧師・役員を増やすこと、
神学校でDVについて学ぶ機会をつくることなど
目下の目標を語ってくれた

何より納得できたのは、「聖書はいかようにも読める」という発言だった
言い換えれば、自分の都合のよいように読むことが可能だということだ

それは論文はじめ、どんな書物や経典においても同じことがいえる
人は自分に変革をもたらすような言葉や考え方に出会ったとたん、
心の扉を閉じ、目の前の文章を読み替えてしまう
私の講演に来ても同じことをしている人は少なくないのではないか

そうした人にひとつだけ言っておきたいのは、
あなたの周りに苦しんでいる人がいる、
あるいはあなたを苦しめる人がいるのは、
あなたが心の扉を閉じ、真実から自分を遠ざけているからだ
誰かをひとりの人間として一人前に扱っていないならば、
あなたの苦しみはつづくだろう

子に苦しめられている親よ
あなたの子は自らの行いや考えがまちがっていることを知りたいのだ
自分で自分の人生に責任をとりたいのだ
それを親だからという理由で阻害しているのはあなただ
あなたの子どもが成人しているのにいつまでも自分の人生と向き合えないのは
あなたに勇気と子への信頼がないからだ

あなたは身を引くべきだ
そして子どもに言え
「自分で責任をとれ」と
一時ホームレスか受刑者になるかもしれないが、
人間としては今よりも成長して帰ってくる
その時、黙って抱きしめてやればよい